AセクによるAセクのためのブログ

長いアセクシャル人生、こうやって生きてきたよということを綴ります。Aセクの結婚、友情結婚、善きパートナーについても書いています。

新しい出会いに必要なこと

こんにちは。

東京では桜が見頃とのこと、やがてそろそろ散っていくのでしょうか。

わたしが住む地域は今年は桜前線の北上速度が遅いのか、まだまだツボミ。

梅が咲くのもこれから。だいたい例年、桜と梅が同時期に咲きます。

 

近頃、妙に落ち着かない、ソワソワした感じ、わくわくした気分……

これは何だ! と思っていたけれど、

体が春の到来を感じ取っていたということみたいです。

頭で考えるより感覚で察知したり直感が働くことの方が、わたしにとって重要なこと。

だからこういうのは嬉しいです。

 

素直に、地のままの自分自身に感覚にしたがって生きていくことでストレスは少なくなるし、それに身を任せていた方があんがい世の中はうまく回っていく。

そんなことを、これまで生きてきた中で感じることが多かったからかもしれません。

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あれ、なんだろう?

春のわくわく、ドキドキ、ソワソワって、やっぱり新しいものを体のどこかで求めていることからくるのかもしれない、なんて思います。

新生活とか、新しい環境とか、新しい出会いとか、新たな仲間とか、新調した靴やバッグとか、なにかが一新されるのってやっぱり楽しい。

新しいものの中に飛び込むのって緊張や恐怖感もあるけれど、自分の新たな一面に出会える可能性があるということで、もっと自分に期待してやってもいいのだと思います。

そう思えるこの時期を、心が動くままに楽しみたいですね。


新しい習い事を始めるとか、サークルに飛び込んでみるとか。

恋人や長く付き合える人に出会うためにパーティーに参加してみるとか、
同じ傾向を持つ人がいそうなお店に顔を出してみるとか。

 

生活って「行動あるのみ」です。

 

「自分からいけるほど積極的な方じゃないんです……」という人も多いかもしれませんが、これまでの生活を振り返ると、学校などでの強制的なものにしろ、惰性にしろ、興味からにしろ、結局なにかしらの「行動」の結果、今の自分があるわけです。

 

もしかしたら、あの時動かずにいればその後傷つくことはなかった……
という経験をしたことがある人もいるかもしれません。

だけどそれはその人の受け止め方や対応力、知り合った先の人たちや環境の問題であって、新たな出会いを拒むことの原因にはならないと思います。

これがダメなら、次にいく

一つのことにいつまでもこだわっているのは、時間のムダ遣いをしているのと同じです。



かくいうわたし自身もとくべつ積極的な方ではありません。

とくに30代くらいまでは好奇心があっても「わたしには向いていないかも」「今はまだその時期じゃない」などと考えてちっとも前に進めませんでした。

そもそも向いている向いていないなんて、自分で判断できることではないし、

まだその時期じゃないって、一体いつその時期が訪れるんでしょうね?(^^ゞ

 

結局ただの言い訳、行動しないことの理由を自分で作って新しい自分に出会えるチャンスを自ら失ってきたわけです。

 

どれほど興味があっても、消極的なわたしはその中に飛び込んでいくことが出来ない。

いや、「出来ない」のではなく、単に「しない」

それだけです。

 

願っているだけではこれまでの生活と変わりません

絶対に変わらない。

誰かが幸福の種をまいてくれるわけではないんですよね。

 

自分自身が前に踏み出している時でなければ、

そうやって感覚のアンテナが外に広がっている時でなければ、

たとえ誰かがまいてくれたとしても、その種ですらみつけることができない。

新しく生まれた芽に出会えるわけがない。

 

これは本当です。

なにか一つ、アクションを起こす。

そうすれば、一つの発見や出会いがある。

そういうことです。

何もしない人には何も起こりません。




先日子供と一緒にお散歩してたから、公園の隅にすくすく伸びているツクシをみつけて春だなぁと思ったけれど、これも外に出て歩いていたからツクシを発見できたわけで、たぶんあの時お散歩にいかなければ、もしかしたら今年はツクシを見ることもなかったかもしれないし、見ても気にとめることはできなかったかもしれない。

風邪気味だったけれど、ちょっと外に出て良かったな、こうやって春をみつけることができたもんなぁ、と思った次第。

 

歩けば何かみつかる。
そんなことも思った、ある春の日でした。

 

友情結婚に特化した結婚相談所カラーズ

 

「セックスレス、大いに結構」と思う理由について考えてみた。

夫婦間での悩みの一つにセックスレスが挙げられるわけですが、
これって、そんなにイヤなのでしょうかね。

イヤなんでしょうね。。。

だからお悩み相談とかにハガキがきたりするんですよね。

 

わたしは結婚する前から
もし結婚することがあったなら、「早くそんな関係になってしまいたいなぁ」なんて考えていましたけどね (;^ω^)

 

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セックスレスになると、なにがそんなに困るのだろう?

そんなにしたいのか……(;^_^A

と、全くもってセックスレスで悩んでいる人に共感できなかったのです。

 

だけど世の中には、
結構この手の相談や、
離婚の引き金になるとかいう話を目にし耳にすることは少なくないので、

きっと日常的に夫婦間で性交渉をするのは当たり前であり、
義務でもあり、
それを両者が欲しない関係でもない限り責め苦はつづくんだ……
とまで考えていました。

 


長い夫婦生活において、レスになるのはいいとして、
そこに苦悩する人がいることに理解は出来ても、
とうてい賛成というか心が動かされることがなかったんですよね。


おかしいな。
そんな人、どうしているの?

ちょっと変なんじゃないの? 

そんなのは、ある少数者の特殊な悩みと思っていました。
完全にマジョリティ側に自分がいると信じていました。

まあ、そういうのが好きな人もいるってことで。。。
と、半ば苦笑いさえして相談ごとが書かれた記事に目を通していました。

 

 

なにしろAセクという言葉や定義を知ったのは、結婚後です。

恋愛感情や性的興味に関し空白部を持っているなんて、
薄々気づいてはいても認めたくなかったり、

そんな気持ちになれない自分は人間的な欠陥を持っているのだと周囲にバレないようにしていた過去があるわけです。

 

ところが自分がアセクシュアルと名付けられる部類に属することを知り、
ようやく自分自身の特徴、特異性、どうやらマイノリティの側にいるらしい、
なんてことに一気に気づき、
そこではじめてセックスレスに悩む方々に共感できない理由を知ったわけです。

 

共感も何も、こちらにしてみれば、

だって、したくないんだもん

ということに尽きるわけです。


そもそも、

むしろ、

なくていいので。。。

 

することの方が、悩みなんだもん!

 

セックスレス、素敵。万歳。
いいなぁ、うらやましいなぁ。

 

気持ちでつながっていれば十分なAセクであるわたしにとっては、
とても自分のこととして想像し、共感し、解決方法を探ってみようなんて気になれなかったというわけです。

 

理由が分からなかった者にとっては、結構すっきりできた発見でした。

 

 

極論を言ってしまえば、
わたしにとって性交渉は妊娠のための行為にすぎないといっても過言ではありません。

 

アセクシュアルだけではなく、
ストレートの人の中にも性的関係をあまり好まない人もいるでしょう。

 

なぜか世の中には
恋愛=性交渉
みたいな前提があるので、それを好きになれない自分はおかしいのではないかと悩む人だってきっといると思います。


「みんなちがって、みんないい」ではないけれど、
ホント、人の数だけいろんな性の捉え方や好みや我慢(容認)できる限度があるはずなのです。

 

夫婦間で、セックスレスに悩む人もいれば、
むしろない方が過ごしやすいという人もいる。

 

わたしは当然ながら後者。

夫婦でよくおしゃべりするし、一緒にお酒飲んで笑いあって、それで十分満足。
セックスレス、大いに結構です!
こちらの方が生活していくうえで自然で、居心地のいい人間もいます。

あんがい、少なくない数の人がね。

 

 

セクシュアル面の偏見は消滅しないが薄らいではいる

6月も半ばになり、ようやく梅干し用の梅を買ってきました。

 

去年はじめて漬けてみて、
できていく過程を見ながら過ごす日々がなかなか面白かったし、
自分で作った梅干しを一年通して食べられるというのは
気持ち的にちょっと贅沢なような、
暮らしに余裕を持てている、そんな気になりました。

 

まだ少し青い部分があるのでザルに広げて追熟させています。
2、3日もしないうちに梅特有のあまーい香りが漂うことでしょう。
幸せになる香りです。

 

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さてさて、
ニュースやドラマ、映画などでも
性的少数者に触れられた問題が取り上げられることが日常化してきて、
あんがい壁は取り除かれたのではないかと錯覚してしまいそうにもなる昨今。

 

確かに、異性愛者と同性愛者との垣根はだいぶ除かれてきたような気もします。
認識という面で。

特に若い世代は多様性が日常化してきている中に生まれ育ち、今後ますますフラットになる可能性のある社会で暮らしていくでしょう。

 

「同性としか付き合えないから」とか、
「付き合っている人って、彼氏じゃなくて彼女なんだよね」

なんてことを周囲に言っても、これまでほどには引かれないだろうし、受け入れてくれる人も以前よりずっと多くなるはずです。

 


それは啓蒙活動というか、
マイノリティの側の人たちが声を上げ続けてきたことの結果だと思います。

 


どんなにこれまでの常識とは違うことでも、
日常の中に刷り込ませてそれが当たり前という前提を築いてしまえば、
変なことは変じゃなくなるわけです。

 

当然、ちっともおかしなことじゃないのに世間の偏見にあったり、
あるいはなぜかマイノリティの側に押し付けられていた事がらも、
受け入れる側の態勢が整えば、社会全体でも認めざるを得ないわけです。

 

 

できちゃった結婚」というのがありました。
ご存じの通り、結婚する前に先に妊娠が発覚し結婚に至るものですよね。
結婚⇒妊娠⇒出産という、
これまでの順番を崩して結婚になだれ込むイメージがつきまといますが。


これが万人に受け入れられるとか認知されたとか、
あるいは結婚が決まらないカップルに推奨するようなこととは思えませんが、
今では「授かり婚」などとプラスのイメージに名称を変えて社会に受け入れられる形になってきました。
まあ、生まれるものは受け入れざるを得ないわけだし、なんとか親や親族にも納めてもらうしかないわけです。


(順番は守った方がいいという意見に、今もってわたしは賛同するのでこんな言い方になるのですけど)

 

話を戻すと、いくらこれまでの過去の事例で社会に周知されなかったことでも、繰り返しそれが行われたり、
当然のことながら当たり前のことをきちんと通すことで、善かれ悪しかれ必ず世論の大勢を占めてくるのです。

 

そういう周知が上の世代にもなされ、さらにこれから新しい認識が広まった世の中に生まれ育つ人が増えれば、
必然的にこれまでマイノリティと言われてきたことは、マジョリティの側に移っていくことになります。

 

思いきり個人的で、人間そのものであるセクシャル面で大勢とか少数に分けられてしまう事態がそもそもおかしいわけですが、
それも少しずつ確実に進歩しています。

 

時代は間違いなく変わるし、
セクマイに関する認知の進度はここ数年本当にめざましいです。

 

当たり前のことが当たり前である社会に。
こんな人間として当然のことが、べつだん議論の対象になったりしないように。

 

今後もこういう動きが加速すればいいなと思います。

 

同性婚、早く法整備が進むことを願います。

地裁だけど、同性婚訴訟で「法の下の平等憲法14条)」に違憲判決が出てよかった。

 

生活を共にし、協力し合い、なにもかも異性婚の夫婦と変わらない生活をしているのに、
同性を好きになったがために、
どうして結婚という誰にでも認められている初歩的なことでつまづかなければならないのか不思議でしかなかった。


古くからの法律と憲法がそれを阻止してきたようなところがあるけれど、
違憲判決をしてこなかったのは人間、現在に生きる人間なわけで。

 

時代は変わっている。
どんどん変化していっている。

 

簡単に変えちゃいけないこともたくさんあるけれど、
変えていかなければいけないこともたくさんあるのだ。

 

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よかったね。


国側は、憲法がさす「両性」や「夫婦」は男女を表すため「憲法同性婚を想定していない」と反論していた。

 

異性婚のみを認める婚姻制度については「子供を産み育てながら共同生活を送る関係に法的保護を与えるためで、合理性は明らか」と。

 

 

子供は「育てる」ことは必要だけれども、
「産む」ことは別に結婚した本人でなくてもいいのではないかと思うのだが。

 

養子縁組や代理母出産などという、結婚した女性が産まなくても、子供を育てる環境は十分に整ってきている。


こういうのを決める男女比って、圧倒的に男性の方が多いということありませんか?
(これに関わる裁判官の男女比は知りませんが)

 


これまで、同性婚を認めてこなかった理由ってなんだろう。
法曹界の人間の中に、最初に違憲・NOを言う勇気がある人がいなかっただけなんじゃないのか。

 

同性カップルがこれまで何か問題を起こしただろうか?
異性婚をしてれば、何も問題行動を起こさないのだろうか?
言わずもがな。


誰かを不幸にするために法律があるわけではないはずだ。


同性婚が認められ不愉快な思いをする人は、自分が幸福な結婚やパートナーとの共同生活ができていない人なんじゃないかと疑ってしまう。

 

自分が幸せなら、他人も幸せであっても別に気にならないと思うのだけれど。

 

とにかく今日の判決はよかった。

 

自分は同性婚をする予定はないけれど、
そんなこと関係なく、
信頼する人と生活を共にし、権利を主張しあえる社会の一員に二人でなれる、その一歩を踏み出せたということは、それだけで幸福なことだと思う。

 

どんどん、他の地域でもこの当たり前のことが認められますように。

恋心がなくても家族はつくれるよ。

結婚に何を求めるのか。

それはひとそれぞれ違うけれども、おそらく共通なのは「ひとり」より「ふたり」がいいという認識。

 

Aセクなら、生活を共にする人なんていらないという人ばかり?

Aセクなら、結婚なんかしたくないし、未婚であってもパートナーでさえいらないし、ましてや子供なんてほしくもない。

家庭という、これから育んで歴史を作っていく小さな共同体に所属する気もないし、したくもない。

 

そんな人ばかり?

 

もしかしたら世間には、Aセクの人に対してそんなイメージを持っている人もいるかもしれない。

 

もちろん、Aセク当事者の中にもそういう人はいる。

たくさんいるかもしれないし、思いのほかちょっとかもしれないけれど。

 

だからこれは、Aセクだからとか云々の話ではなく、一人の人間としての個性に過ぎない。

 

ならば、やっぱりAセクの中にも、結婚してみたいし、子供も持ってみたい、家庭という形をとってみたいと願う人だってたくさんいて当然。

 

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わたしがかつて独身だった頃。

恋心なんて誰にも感じないないけれど、家庭とか子供がほしいと思っていた。

 

やりたがり、経験したがりな性格もあって、「結婚なんかもしてみたい!」そんな感覚。

 

恋愛感情? なし!

でも、人としての

「この人となら、これからの生活を一緒にやっていけるかもしれない」

という信頼感情はもっていた。



いいひと。

 

なんか、一緒にいてくれると安心できるな。

 

このひとと、別の景色も見てみたいな。




で、結婚してみた。

 

結果は、正解。

 

大正解!



加えて、

どんな人にも感じることのできなかった、

特別な愛おしい感情のかたまりが生まれた。

そう。文字通り、生まれた!

 

子供に対して特別な愛情を注ぐ人はたくさんいる。

言うことを聞かなくて憎たらしく思う時もあるけれど、

それを全部ひっくるめて愛おしい。

 

誰に対しても感じなかった、ずっと一緒にいたいという気持ち。

毎日元気に帰宅してくれるだけで笑顔になれる存在。

こんなに好きでどうするんだろう? というかけがえのない想い。



これはわたしにとって、大発見だった。

 

自分以外の他者に対して、自分の気持ちがこんなふうに動いたことがこれまでなかった人間にとって、

この「特別な存在」そのものが愛おしいという気持ちと、

この【「特別な存在」を認識できている自分自身】を感じることの喜び。

 

それは自分史上、すごく特殊な気持ちの沸き上がり方。



結婚には恋愛感情や恋心などいらないし、

はじめあったところで、それが吹き飛ぶくらいの日々の気ぜわしさ。

 

好きという感情よりも、

「いてくれてありがとう」という安心と、信頼の感情。




コロナ時代で、リモートでの関係も増えてきた。

そこで成長させる関係もある。

 

だけど、近くで人の体温を感じながら生活することで、安定する心もある。



自分はAセクと名乗っているのに、結婚とかパートナーとか言い出すのは今さら気が引けるという人もいると思う。

 

だけど、人生は一度きり。

いろいろな自分を試してみてもいい。

もしも、この先の生活に共同生活をしてみたいという選択肢があるのなら、やっぱりチャレンジしてみた方がいい。

 

それが合うか合わないかはわからないけれど、

進んでみなければ結局のところわからない。



自分の性格ではできないかも・・・

これまで考えたこともなかったからきっとムリ・・・

 

なんていうふうに時間を浪費するよりも、まず一歩前に足を踏み出した方がいい。

二歩目は一歩目を踏み出してから考えればいいだけのこと。



家族を持つのって悪くない。

誰にも恋心をいだかなくても、幸福な家庭は持てる。

今なら自信をもって言える。

 

 

 

 

あるアセクシュアルのつぶやき

「人間は周囲の協力、愛情なしには育つことができない。
あなたはこれまで多くの人々の助言や愛の中で生活してきた。
それに気づいていないわけがないでしょう。
気づく努力をしなければ。
今度はそれを返す番だ」

 

そんなことは分かっている。
根本的に責めるポイントがずれている。

 

「恋愛対象として」誰をも愛せない。
それだけのことなのだ。
そこに性的な強さがない、ということだ。
性的な束縛や、性的欲求がないということなのだ。

 

「恋」と「愛」は違うでしょう? 
わたしは恋ができないだけなのです。
人に恋する気持ちが想像でしか分からないということです。

 

言い方を変えれば、
そこに溺れることがなく、そのために我を失うことがないということ。

 

人間の根本を支えているものは「愛」というやつで、
愛のない人間は、失敗作のような目で世間から見放されるということを誰もが知っている。

 

だから恐ろしくて、わたしは人を愛せない人間だとは声高に言えない。
たとえ他人に危害を加えたり、迷惑をかけるような行為をなどしなくとも、
人は「愛」という冠を隠しながらでもいいが、
それでも確実に誰か一人を愛していると言えなければ、コミュニティからつまはじきにされてしまうのだ。

 

しかし誰がそれほど自信をもって「私は●●を愛しています」などと断言できるだろう。

恋愛感情を抱いた相手には、それが言えるのだろうか?

 

 

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過去の自分へも含めて、もう一度問おう。

 

人は誰でも、いや、大方の人は恋というものを経験するのだろうか? 
恋心を抱くのだろうか?

 

もしも社会的に異性愛とか結婚、出産が当然のこととされていなければ、
本当に人は異性を好きになるのだろうか。

 

そもそも異性に性的魅力を感じ(それは同性にでもいいのだが)、
恋をするものなのだろうか。

 

わたしには、やはりどうもそれがうまくできなかった。

そういう気持ちが稼働しなかった。
のめり込むことができず、一歩引いて人間的な力とか強さで人を判断してしまう。

 

でも、それは責められること? 
人に恋しないことは、偉そうだと罵られることなの?

 

しかし、それがわたしだった。

それはずーっとそうだった。たぶん、生まれてからこれまでずっと。

 

どう頑張っても、他の誰かにはなれない。
「誰かに恋して、その先に結婚があって……」
どう努力しても、結局は虚しい結果に終わることは目に見えている。

だって、わたし本人はそう思っていないことを、すでに初めから知っているのだから。まるでフィットしない入れ物を目の前に差し出されていることに、
ずーっと前から気づいてしまっているのだから。

支え、支えられするのがパートナー・夫婦

婦ってなにか特別な関係なのかもな、と近頃特に思います。
やっぱり人同士の関係って、当たり前ですが信頼関係なわけです。

 

わたしは特別恋愛感情を相手に対して持つわけではないので、
ずっと以前から親しい人とはどれだけ信頼関係を築けるかにかかっていました。

 

もちろん親しい友人とか、仲良くなった同僚とか、特別な人たちもいます。
だけどある意味契約関係で結ばれている相手というのは、配偶者しかいないのです。

 

それよりも濃い、血縁関係で結ばれている親や子という関係は特別ですが、
自分で選んだ相手、結婚という契約関係を結んだ相手というのは配偶者のみなのです。

 

いってみれば血縁関係も何もない最大の他人で、そういう人と自分の人生を重ねていく。
一緒に同じ時間や空間を共有していく。
そういうことに、若い頃は疑心暗鬼なところもあったし、自信もなかった。

 

途中で不信感を抱いたら、おしまいだと思ってもいました。
だって好きとか嫌いとか、そういう情でなんとなく関係を築くことができそうもないわけで、
そうなるといかに自分がその人を信頼できるかの一点に集中してしまうからです。 

 

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があり、近ごろパートナーは仕事が変わり、今は新しことを覚えるのに精いっぱい。
朝から晩まで根詰めて働いて、帰宅後もまとめておきたいことや覚えることがたくさんある様子です。

 

家で不機嫌を出したり、家族に当たったりする人ではないので助かりますが、
裏を返せば自分だけで抱えてしまい精神のバランスを崩してしまわないかと、
そちらを心配しています。


は、わたしが支える番なのだと思います。
仕事のことでつらい様子をみせることがこれまでなかったパートナーが、
おそらく今初めてキツイ立場に直面している。

 

ここで支えられるのって、相手であるわたししかいないんですよ。
パートナーはその片割れのパートナーが一番近くで支えて、反対にある時には支えられて
そうやって「人」という感じが出来る――じゃないけれど、
結局お互いのことを同じだけの力でいたわり支えるか。
それが人間同士の親しいつながり方だと思うのです。


そこに何度も書くけれど、恋愛感情なんてまったく関係ないんです。
人と人とのつながり、いたわり、親愛しかありません。


夫婦って、恋愛が生み出すものじゃない
二人で育み、支え、支えられして長い時間や経験を重ねていくものだと思います。
結局、対人間です。
そこにあるのはきれいな部分ばかり見せあえる恋愛対象としての人間ではありません。
生身の人間なのです。

 

 


たしは今結婚生活が10年ほどなので、まだまだ二人の時間を紡いでいく途中にすぎませんが、
その途中で子供が生まれたり、暮らす場所が変わったり、様々なことが積み重なって今があります。

きっとこれからもそうでしょう。

 

一人も気楽でいいけれど、パートナーという存在がいるだけで超えていけるものがあるということを実感している今は、この環境に感謝しています。

パートナーを望む方がいるのなら、二人、また三人、四人と増えていく生活は、新しい自分と出会う可能性を含んでいるということをお伝えしたいですね。

 

 

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