あるアセクシュアルのつぶやき
「人間は周囲の協力、愛情なしには育つことができない。
あなたはこれまで多くの人々の助言や愛の中で生活してきた。
それに気づいていないわけがないでしょう。
気づく努力をしなければ。
今度はそれを返す番だ」
そんなことは分かっている。
根本的に責めるポイントがずれている。
「恋愛対象として」誰をも愛せない。
それだけのことなのだ。
そこに性的な強さがない、ということだ。
性的な束縛や、性的欲求がないということなのだ。
「恋」と「愛」は違うでしょう?
わたしは恋ができないだけなのです。
人に恋する気持ちが想像でしか分からないということです。
言い方を変えれば、
そこに溺れることがなく、そのために我を失うことがないということ。
人間の根本を支えているものは「愛」というやつで、
愛のない人間は、失敗作のような目で世間から見放されるということを誰もが知っている。
だから恐ろしくて、わたしは人を愛せない人間だとは声高に言えない。
たとえ他人に危害を加えたり、迷惑をかけるような行為をなどしなくとも、
人は「愛」という冠を隠しながらでもいいが、
それでも確実に誰か一人を愛していると言えなければ、コミュニティからつまはじきにされてしまうのだ。
しかし誰がそれほど自信をもって「私は●●を愛しています」などと断言できるだろう。
恋愛感情を抱いた相手には、それが言えるのだろうか?
過去の自分へも含めて、もう一度問おう。
人は誰でも、いや、大方の人は恋というものを経験するのだろうか?
恋心を抱くのだろうか?
もしも社会的に異性愛とか結婚、出産が当然のこととされていなければ、
本当に人は異性を好きになるのだろうか。
そもそも異性に性的魅力を感じ(それは同性にでもいいのだが)、
恋をするものなのだろうか。
わたしには、やはりどうもそれがうまくできなかった。
そういう気持ちが稼働しなかった。
のめり込むことができず、一歩引いて人間的な力とか強さで人を判断してしまう。
でも、それは責められること?
人に恋しないことは、偉そうだと罵られることなの?
しかし、それがわたしだった。
それはずーっとそうだった。たぶん、生まれてからこれまでずっと。
どう頑張っても、他の誰かにはなれない。
「誰かに恋して、その先に結婚があって……」
どう努力しても、結局は虚しい結果に終わることは目に見えている。
だって、わたし本人はそう思っていないことを、すでに初めから知っているのだから。まるでフィットしない入れ物を目の前に差し出されていることに、
ずーっと前から気づいてしまっているのだから。