AセクによるAセクのためのブログ

長いアセクシャル人生、こうやって生きてきたよということを綴ります。Aセクの結婚、友情結婚、善きパートナーについても書いています。

Aセクやノンセクは辛い? 孤独? 生きづらいのか?

恋愛感情がない。

性的な接触を考えると気持ちが引いてしまう。

 これは思春期特有のものなのだろうか。一過性のもの? 

 

 ”単純に、好きになれる人と出会えていないだけという可能性もある”

自分の中のその可能性を、自ら閉ざしてはならない。

 

……そうやって、長い歳月が流れた。

 

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目次

 

恋愛にチャレンジしてみた20代。

20代。

好きになれるかも知れないと思い、試しに付き合ってみるが失敗に終わる。

「今は好きとは言えないけれど、付き合っているうちに好きになれるかも知れない」

そんなOKで始まった疑似恋愛は、しっかりと終焉を迎えた。

数年間付き合ったのに、結局一度も恋心を抱いたことはなかった。

最後の方は愛着。

 

「もしかしたら、いずれ……」

そんな気持ちになることはおそらくこの先もないだろうということは、心の奥底で知っていた。

 はっきりさせたくないのに、ほとんど確信のようになっていた。

 

たぶん、アセクシャルの人は、自分のどこかに完全な欠落を意識している

 

だが、もしかしたら……?

運命的な出会いでもあれば、案外すんなり変わってしまうのではないか?

世間一般のマジョリティの側にするりと入り込んでしまうのではないか?

 

違うことは、ほぼ確信しているというのにも関わらず、それでも一縷の望みをもって誰かと付き合うことでその証明をしてみせようとする。

時間の無駄。相手の、自分の。
それを分かっているのに自己本位で試みる。

 

 

Aセクの人は、心の隅に、完全に「無」の部分を意識している

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わざとそうしているわけではない。

意図的に恋することを避けているわけではない。

恋した自分を人に見られるのが照れくさくて、そんなことを言っているわけではない。

 

無いものは「無い」としか言いようがない。

「好き」という、恋愛を絡めた世間でいうところの「好き」という感情が「無い」。

けれども、「無い」ことを証明するのは難しい。

 

 こうして、40年近く自分を表す言葉が見つけられずにいた。

 

ある時、ネット上でアセクシュアルという言葉と出会ったとき、心底ほっとした。
何かがストンと腹に落ちた。

この地球上に自分の居場所があったのだ。
いてもいいんだ。

なんだ、他にもいたのか。

会ってみたいな。
その存在を、ネット上でいいから感じてみたいな。

 

自分を定義する言葉は大切だ。

生きていく力になる。進むべき方向の確認ができる。

 

 

世間の多くの人は、男女の関係を恋愛ありきで考えている

だいたいにおいて、人は誰でも自分がこれまで見聞きしたことのない物事については疑う。

だから「恋愛感情がない」とか、付き合っている人がいたとしても「性的欲求が湧かない」と本音を口にしたところで、なかなか初めから理解してもらうのは難しい。

 

そういうふうに幼いころから疑問を持つことなく刷り込まれているし、それこそ多くの人たちは(マジョリティの側にいる人たち。要は異性愛者の方々)、思春期を迎えた頃には異性に恋をするというルートをたどる。

 

だって、以前は教科書にもそう書かれていたから。

(わたしのような「まじめ」な生徒は、教科書に載っていることを疑いもせず信じた)

 

 もちろんそれはそれで、まったく異論がない。

そういう人がいるならば、別にそれで構わない。たまたま大人数の人がそこに属するというだけのことで。

 

だけど教科書に反して、異性にではなく、同性に恋をする人もいる。

造反者だ。

こちらも異性愛者に比べれば、少数派ということになる。

それで、不要な戦いを強いられることになる。

 

でもアセクシャルの立場から言えば、

彼らのどちらもが、恋心が「ある」人たち。

異性愛者も同性愛者も、恋する気持ちが「有る」人たちなわけだ。

 

 

だけど、そこに当てはまらない人もいる。

「ある」の部分がない人もいる

案外、少なくない数の人が生息している。

 

 

そういう人たちがいることを、きちんと理解してくれよ!

 

……なんてことは別に言わない。

ただ、自分と異なる性格の人の存在を認めるように、「恋愛に対して」自分とは違う捉え方をする人もいるんだなぁと、頭の片隅にあるフックにでも引っかけておいてくれればありがたい。

 

 

恋愛と性的関係は常に結びつくわけではない。

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 恋愛感情があれば、性的関係を持つのは当たり前と考えるのは、いわゆるマジョリティの方の考え方にすぎない。

最大多数の最大幸福かもしれないが、最大多数がいつも正しいわけではない

 

 恋愛 = 性交渉OK

とならない人も世の中には存在している。

確実に存在している。

大多数の人たちが当たり前と思っていることが、通用しない人たちがいる。

 

今付き合っている人が、もしかしたらノンセクシュアルかもしれない。

あなたのことは好きだけど、体の関係は持ちたくない、触れられるのも好まないという人かもしれない。

 

そして、仮にそうであってもノンセクやアセクシャルの方からはなかなか言い出せない。

本当は手を握られるのも嫌なんだよね、なんて好意を持つ相手にそうそう簡単に言えない。人間性まで疑われそうで、怖い。

 

 

アセク・ノンセク。セクマイを言い訳にしてはいけない。

この先、もっとセクシャリティに関することの露出が増えて、理解も進むと思う。

啓蒙活動は大切だし、世間のいたるところで様々な性の形の紹介がなされればいいと思う。

 

セクマイの立場も、おそらく徐々に理解が進み、たとえ表面上だとしても受け入れられ、案外すんなり世間に浸透していくかもしれない。

 

だけどね。

アセク、ノンセクは少数派であることは、おそらく今後も変わらない

理解してくれる人が多くなったとしても、全員がいい顔して受け入れてくれるわけではないだろう。

 

それでも。

自分を表す言葉に出会えたことは、ある意味、腹をすえて生きていく覚悟ができるということだと思う。

早い時期に自分の土台を築けることは幸福なこと。

 

周囲が分かってくれなくて生きにくい。
親が理解してくれなさそうで憂鬱……

 

そうだよね。

でも、だよ。

周囲が自然と都合よく調和させてくれるわけではない。

環境の方から勝手に整ってくれるわけではない。

自分が生きにくいと思えば、改善できるところからやっていくしかない。

これはセクマイだからということではない。

自分の生きていく方法を探るのは自分自身でしかない

生きづらければ、生きやすい方法を探して戦うしかない

 

結局のことろ、セクマイだから生きづらいのではない。

自分の幸福は自分で勝ち取っていくしかないんじゃないのかな、と思う。