AセクによるAセクのためのブログ

長いアセクシャル人生、こうやって生きてきたよということを綴ります。Aセクの結婚、友情結婚、善きパートナーについても書いています。

共同生活者・パートナーの条件

自分自身との付き合いが長くなると、さまざまなことが分かってくる。

自己の発見は楽しくもあり、驚きもある。

 

わたしはどうやらL寄りのAではないかという可能性が否定できないので、今度パートナーを持つとしたら同性もいいと思っている。

というか、思い始めることができるようになったという発見でもある。

 

とはいえ同性と付き合ったことはなく、もちろん恋心を抱いたこともない。

ただ、異性よりも同性のほうが一緒にいて居心地がいいと思うのは事実のようだ。

でもそれは、もしかすると単に異性を好きと思えずに、友人として話したり行動するのが同性の方が楽ということなのかもしれない。

 

正直言って、結婚し子育てに追われて日々を過ごしていると、

性別にこだわることや、自分がセクマイに属しさらにそれを分けるアルファベットの中の何だとかはあまり重要ではなくなった。

 

おそらく今の生活に以前のような悩みはいらなくなったからだと思う。

もちろん前はそんなふうには考えられなかった。

白黒はっきりさせたい方だし、自分が何者であるかという自分探しみたいなこと、アイデンティティの明確さが情緒の安定にもつながっていた。

だからなにがなんでも、自分自身が属する場所を現存する言葉にあてはめて安心したかった。

実際、アセクシャルという言葉と出会った時の安堵感は今でも忘れられない。

 

「何物にも束縛されずに自由に生きたい」などというポーズはとっていたけれど、

どこかに束縛されること、あなたはこういう特徴を持ちこういう言葉で表される集団に位置しますよと定義されたかったことに、その時激しく気づいた。



生活を重ねる中で、わたし自身という一人の人間の内面も変わってきた。

さまざまな経験をし、いろいろな人々の考えを知るうちに変化した部分も多い。

LもGもBもTも、もちろんAも。

出会った人が、どんなアルファベットで表されてもべつだん驚きもしないだろう。

偏見もなければ、Aの人に意見を求められれば喜んで自分の経験から言えることを話すだろう。

 

これは自分がその一部であったこともあるけれど、その後の啓蒙活動も大きかったと思う。

わたしもそういう世界があることを知ってからの方が壁みたいなものがなくなった。

一人ひとり、性格が異なるように性的指向もたくさんあってよく、それが当たり前なんだと気づいた。発見したといったほうがいいかもしれない。

 

社会的にも以前よりもずっとこの部分での理解は進んでいるようだ。

もちろん好き嫌いは人それぞれなので、全員がセクマイに属する人を快く迎え入れてくれるわけではない。ただ、物事はなんであれ100%賛成されることはないし、どんな分野のことでも、それを受け入れる人と受け入れたくない人とどちらでもない人に分かれるのだから。

 

だからそういう意味でも、あまりセクマイ自体を重大事に考えることもなくなった。

 



パートナーの性別にこだわる意味が薄れているのには、一つには自分自身が結婚して子供がいるからかもしれない。

 

年齢的なことを考慮しても、今後子供を産むことは考えられない。

わたしにとって異性が必要だった理由は、妊娠し出産したかったからということが大きい。

 

ずっと以前は「好き」という感情もないのに結婚に進めるはずがないと思っていた。

完全に恋愛至上主義的刷り込みがなされていた。

そこから外れることは不完全な人生だとさえ思っていた。

(親の意向などによるお見合い結婚で、ふつうに結婚していた人たちの存在はまったく念頭にのぼらなかった)

 

しかし「好き」がなかったわたしも、歳を重ねるにつれて自然とどこかで折り合いをつけていたのだと思う。

一緒に暮らす人、もしかしたら家族を増やす相手、それは単に生活共同者にすぎないのではないか? と。



そして結婚してみて、やはりわたしの中にある「好き」の概念が多くの人とは違うのだと確信した。

 

わたしは、最初から相手のことを「人間的に」好きなのである。

「今後生活をしていくうえで最適な人」と判断しているのである。

 

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長く一緒に生活していく中では、何もかもが好ましいことばかりではないし、むしろ細かいことなど違うことのほうが多いかもしれない。

 

なんとなく、同じ方向を向いている。

案外アバウトな方がバランスがとれるのかもしれない。

 

とはいえわたしは今のパートナー(夫)をとても好きだ。人間的に本当に善い人だと思っている。

この人でなければ、わたしもこれほどわがまま放題できないような気もする。

子供が欲しいために異性と結婚したようなことを先に書いたが、一緒に暮らしていく人としてこの人ならばという気持ちが一番強かったのが今のパートナーだ。



たぶんこれは男とか女とかは関係なくて、一緒に暮らしていくのにちょうどよい、最適だったということなのだろうと思う。

 

十数年をともに過ごしてきて、今では生活に欠かせないワンピースだ。

「ありがとね」と言い合い、声を上げて笑い、「子供のクリスマスプレゼントは何にする?」とこっそり話し合う。

 

ただ、そことは切り離して考えたとき、

わたしの場合、パートナーには同性を選んでもぜんぜんかまわなくて、それで心地よい生活を作れるのであればその部分でなにもためらうことがないということだ。

 

Aセクでも結婚できるし、家庭は築けるとずっと書いてきたのはこういうことだ。

 

 

子供を持つタイムリミット

偶然にも周囲で産休をとる人が重なり、ふと自分の時のことなど思い出したりしている。
好きになれる相手もいなくてなにを結婚をと思っていたし、その先にある出産なんて夢物語と思ってもいた。

 

タイミングが重なり、わたしの場合は結婚→出産となったけれど、
もしなんとなーく共同生活を営むのにいいと思う人がいるのに、一歩を踏み出せないでいる人がいるとしたら読んでほしいなと思い今回は書いてみます。

 



30代の途中まで、わたしは一人の生活をのびのびと謳歌していました。
以前つきあっていた人との関係に疲れたのでしばらく一人でいたいと思っていたら、そんな歳になっていて。
だけどいわゆる「好き」でつきあった人ではなかったのでうまくいかなくても仕方がないと思ったり、そんな自分に時間を浪費させてしまったと相手に申し訳なく思ったり。

とにもかくにも誰かとこの先一緒に生活するなんて無理じゃないだろうかと考えてもいました。

だったら一人のほうが気楽だし、誰にも迷惑かけないし、自分の時間を自分だけのために使える方がずっといいと。


そこに立ちふさがったのが、子供を持つこと(妊娠・出産)のタイムリミットでした。

 

結婚には疑問符が付くけれど、子供は欲しいと思っていて。
でも最初からシングルマザーになる気はありませんでした。
なんでもしてみたがりのわたしは、結婚したパートナーと子育てもしてみたいし、
その後シングルマザーになったのであれば致し方がないという感じです。


男性と違って女には節目があります。
今は受精卵の冷凍保存などさまざまな方法があるのかもしれませんが、できうる限り自然妊娠、通常出産を希望していました。

 

結婚適齢期も大事ですが、妊娠・出産の適齢期というか上限の方が、わたしには大切な気がしました。
変な話、結婚はいつでもできる。老いも若きもできる

でも妊娠し、出産し、その後数年間に及ぶ育児を考えると、体力的なこともあるしもちろん生理的なこともあり、これ以上先延ばしにするわけにはいかないと思いました。
「はい、着床しました、来週出産です」
ではないんです。
そこから約10か月の間、卵を温める期間が必要が女性にはある。
そこから一年近く待たなければならない。一つ歳を取る。一年分体が衰える。

そいういうことです。


わたしは高齢出産だからよけいに思うのかもしれませんが、産めるのであればもう少し早めに産んでおきたかったという思いもあります。
高齢出産でいいことももちろんあってそれは別の機会に書くかもしれませんが、心身のことを考慮すれば早めに産んでおいて損はない気がします。
もう一人ほしくなったら産める年齢であれば、家族計画も書き換えられるわけです。
わたしもあと5歳若かったらもう一人を考えたかもしれません。

いや、たぶんそうしていたでしょう。


結婚となると「うーん」となるAセクの人は多いと思います。
でも同じくらい子供は欲しいんだよね、という人も案外多いのかなと想像します。

このブログでも以前にも書いたかもしれませんが、子供を持ちたいという考えがあるのなら早めの行動や意識が必要だと思います。
時は待ってくれない。
あと一か月もすれば年が変わります。

 

もちろん物事にはタイミングがあります。
水が高いところから低いほうへと流れるように自然と物事が進んでいくことも多々あるし、それが一番いいことだと思います。

でも、そこに至るにはキッカケがあるのです。

出会いの場というものが必ずあって、そこに巡りあわせのように「その人」がいるのだと思います。

変な恋愛のススメみたいでイヤだけど、人でも物事でも流れているものが必ずあって、そこにうまくはまったときに事は運ぶと思います。


もしも気になる人がいて、その人とうまくいくような行動をとれるならそうしてみてもいいんじゃないだろうかと思います。
その際、わたしも以前は気になったけれど、恋愛的に好きとかそうじゃないとかはあんがい相手には関係のないことなんじゃないかと思ったりもします。
その部分を相手に理解してもらう必要ってあるのだろうか、と。
別に騙せばいいと言っているのではなく、この部分が相手にとってそれほど大切なポイントなのかということです。


「恋愛的に好きとはいえない」。だけど一緒にいると楽しいんだけど……という相手がいるのにこちらの都合で距離をつめようとしないのは、もしかしたら自分を騙しているとも言い換えられますよね。
もしかしたら相手も、この人(あなたのこと)といると楽だなあなんて思っているかもしれないですしね。

 

Aセクの人にとっては一回一回がチャンスになるので、居心地がいい人がいるのならその人を大事にしてください。
燃え上がる恋なんて、私たちにはありませんから!(笑)

もちろんそう感じたらその気持ちを大切にしてくださいね。
Aセク宣言をしたばっかりに、恋愛してしまったという罪悪感に浸ることはまったくありません!

 

何度も言いますが、結婚って「恋愛的な好き」な部分の割合ってそうとう低いと思います。
人として好き、信頼できる、いてくれると安心できる、いないとなんだか部屋がスカスカするなあ、そんな感じで日々が過ぎます。

暮らしの中で、今日の出来事や同僚がバカやった話や子供が自転車乗れたとか100点とったとか、そんな言わなければ言わないでいいようなことをポロっと話す相手が近くにいることって結構それだけで幸せなことです。

 

子供と話すのも楽しいけれど、大人同士の話を家でできることに今は幸せを感じています。

 

カラーズは、友情結婚・共生婚・契約結婚などの 恋愛ではない結婚を希望される人のための結婚相談所です。

安心してください。恋愛しなくても死にません

しばらくスマホの調子が悪くて自分のブログを見ることが出来ませんでした。

更新もせずにそのままになっていたので心配したけれど、

久々に覗いてみたらそれなりの人数の方が読みに来てくれていたようで良かったです。

 

なにか言葉にしておけば、誰かの参考になるかな、安心できる人もいるかな、

なんて始めたブログなので誰かしらの役に立つことがあるならば幸いです。


 

元々このブログを立ち上げたとき、LGBTの問題とかがじょじょに大きく報じられるようになっていて、おそらく自分も少数者の中に入るということに気づいたこともあり、なにか文章を書いておきたいと思ったわけです。

 

だって、自分と同じ状態の人(!)を探すのが困難だったから。



すんなり(?)LGBTの中に自分が入っていれば、また状況は変わっていたのかもしれません。

アセクシャルはそれ以外に属するもので、さらに少数派に入ります。

LGBTQIAという呼称もあるけれど、世間に少数派といわれる中でも多数派の側に入っていれば、もっと理解し合える人口も多いし参考にできることもあっただろうにと思います。



今でも思いますが、現在のようにアセクシャルなどという言葉がそれなりに認知されるようになり、解説してくれる人が以前よりはいてくれるからいいけれど、10年ほど前までは一般には出回っていなかったと思います。

そもそも性的少数者に関する言葉や情報自体が表立って出ていなかったと思いますが。

 

ほんと、今ですよね。

こんなふうにメディアでセクマイに関することを、みんなで理解しようみたいな取り上げられ方をするのって。

書籍とかでも紹介されているし、SNSでも発信されているし。

「ああ、もう少し後に生まれていれば、長い間悩まなくてよかったんだなー」

と思います。


★★

 

情報が少ないのって、本当に苦労します。

「同じ悩みを抱えている人が自分の他にもちゃんと存在しているんだ!」

それを知ったときの喜び。

それがたとえ一人でもいいから発見したときの安心感。

これは今でもはっきり覚えています。



だから、同じことで悩んだり不安な人に、「それ、全然おかしくないし、病気じゃないから」と伝えたくて長々と書いているのだと思います。



さまざまな情報を簡単に得ることができる時代になったことと、

そこで得た情報を自分が納得して取り入れることができるのとは違います。

 

いや、いや。

自分がみんなと違うはずがない。

みんながいる輪から、自分が外れているわけがない。

わたしが恋できないわけがないじゃないか。

 

そうやって、頑張ってしまう人が少なくないと思います。

人って、どこかしらみんなと違うのに。

頭では分かっているのに。

それが自分以外の誰かに当てはまることならば、冷静に判断できるのですが。



「そのままの自分でいいんだよ」

とか、使い古された言葉をあまり使いたくないのですが、

 

誰かを好きにならなくてもいいんだよ。

だって、なれないのでしょう? 

そのままでいいじゃない。

直そうとしなくてもいいんじゃない?

あなたは、そのままのあなたでしかないんだから。

 

やっぱり、そんなこと言いたくなります。



恋愛感情がわいてこないのに、恋愛したフリしなきゃいけないのって、本当につらいですからね。(経験上)

 

好きとは言えない人に、「オレのこと好き?」と問われて、

申し訳なさから「好きだよ」答えることの後ろめたさと白々しさ。



★★★

 

「好きな人ができないんだけど〜」みたいなノリではなく、

心の底から「恋愛って何なのー??」「どんな気持ちになれば、恋しているっていえるんだろう」と考え、それが出来ない(異性愛にしても、同性愛にしても)ことが病気かもしれないと本気で悩んでいたこともありました。

 

なにしろ世間では、恋愛して結婚して〜という流れがオーソドックス、というか当たり前のような風潮だったので。

恋愛感情がわかないのは「まだ巡り合っていないだけ」「いつか好きになる人ができる」

ということらしく、時が経てば解消するものと片付けられがちですが、一向にそんな気配はやってこなくて(^_^;)

 

でも、うすうす、自分のこの感じは誰かの出現によって変わるものではないことも気づいていて。



だからアセクシャルという所属できる場所があり、

それがたとえ少人数であっても同じ状態(症状みたいなもの!)を感じている人がいるといることを知ったときには、極端な話、「生きていてもいいんだな!」くらいの勇気がうまれました。

 

自分とは何者か?

いい歳をして自分探しみたいなことを表面下でやっていたわけです。

 

だって、アセクシャルという言葉と出会ったのが、30代後半ですから。

ふつうに社会人やってきた人間が、心の底では定位置を決められない、

どこか人間的な本質の部分にクエスチョンマークをつけたまま生活している。

 

わたしって何者? みたいな、いつまでも欠けた部分の自分探しをしているみたいで。

 

他の部分はなんとなく分かってもくるんです。

いい歳だし、それなりに経験したり、読書もして知識量は増えている。

だけど、「性」という根本的なところが(わたしは根本と捉えている)うまい着地点が見つからずにふわふわと放置されて。

長い間、ずっと。

 

その不可解さと気持ちの悪さ。

 

みんなが出来ているという「恋愛」というものが、自分にはできない。

(それだけは分かる)

 

それを一つの性的傾向として捉えても良いという判定を誰からもどこからもされず、

自身の精神や肉体に欠損があるに違いないという恐れを隠しながら、平気な顔をして生きている。



いくら性の多様性が世間的に理解され、認知されてきている現代においても、

一人で誰にも言えず(まだまだ平気でオープンにできる人はそれほど多くないと思います)、ひっそりとネットなどで仲間探しをしている人も少なくないと思うのです。



だから、彼ら彼女らに何度でも言いたいのですが、

人のこと、恋愛的に好きになれなくても、それは別に病気でもなんでもないから。

あんがい、たくさんいるから、そういう人。

そんなことで悩まなくていいからね。

 

誰かのこと好きにならなくても、それで死ぬわけじゃないから(^o^)

 

究極のところ、そこです。

 

自分に合わない恋愛なんてものをしている時間があったら、もっと自分の極めたいことに時間を割いてください。

そのほうがずっと自分を活かすことになります。

自分の才能やエネルギーを興味のないことに、みんなと歩調を合わせるために使わないでほしいです。

 

これは、自分の体験と反省からですけどね。



生きている時間、心身になんの不調もなく健康に生活できる時間って、人によって違います。自分の持ち時間を有効に使ってもらいたいですね。

 

なんて、自分の子供に言えばいいようなことを書いていますが、

せっかく時間をとってこれを読んでくれる方には、

自分を大切にして。

そのためには、心にもないこと、本音じゃないことに時間を費やさないで。

他にいっぱいやることあるんだから!

と伝えたいです。

 

恋愛なんて、しなくたって死にやしません。

大丈夫。保証します(*^^*)

 

アセクで困ることってあるだろうか?

         雑記回

恋愛が「ある」前提で認識され語られる世界においては「ない」ものは無視される傾向が高いようだ。
つまりマイノリティは横に追いやられるが、さらに「ある」とされている恋愛感情が「ない」者には生存権がないということである。
「ない」もの証明は難しい。

 

でもアセクだから生きにくいことってなんだろう。

自分の性自認が明確であればあとは周囲の目とか、周囲からの接し方に満足いかないということかな。

恋愛感情はなくても結婚は出来るし妊娠・出産はできる。

人と愛し合うことは、恋心がなければできないことかな? それは明確に否定する。

家族は愛情があれば築ける。夫婦の間でさえ恋心などいらない。

恋愛感情がなければ出来ないことってなんだろう。愛のある性行為? 

 

わたしには恋愛感情がないんです、と宣言しなければならない場面ってどんなもの? 

相手が恋愛感情を向けてきたとき、気がない相手には「好きではない」と伝えればいい。
そこに恋愛感情の有無の明言は不要。
いい相手ならば、人として好きとかいうことを伝えればいいだけのこと。

 

カップルに憧れるがカップルになれない寂しさ、不安、相手に対して申し訳ないという気持ち。
好きになってくれているのに、こちらも好きにならなければならないという強迫観念めいたものは生じる。

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結婚後、夫婦の恋愛は愛情や愛着にとってかわられることが多い。
それならばますます恋愛感情はあっても一時期間あればいいということになる。

 

恋愛にしかない楽しさおもしろさがあるので、恋愛は必要という人もいると思う。
誰かにちやほやされたり持ち上げられたりしながら、愛する人や好きな人を獲得していく楽しさがあるのだろう。

 

でもだからといって、それが「ない」人間は「ない」ままで別に良しとしなければ、自分自身でなくなる。
「ある」ようなフリをしてはいけない。自分が苦しくなるだけだから。
自分に嘘をつくことはもっとも自分の首を締めつける。

 

本当に、別に恋心がなくても本質的な意味では何一つ損になることもなし、それで困ることもないのだから。人様に損害を加えるものでもない。

 

周囲からのたわいもない言葉を聞き流すことさえできれば、自分の身に危害が加えられるわけでもないのだし、当たり前に暮らしていける。

 

そもそもこんなことを書いている時点で、もしかしたらもうすでに時代錯誤なのかもしれない。

時代はもっと進んでいるよ、と。
もう2022年なんだよ、と。

セクマイの概念は広く深く浸透していて、誰もかれもが相手のセクシュアリティなんて普通に受け入れているよ、と。

本当に、そうであってほしいと願う。

実際には、女であること、セクマイであること(やはり世間的には未だ少数派という目で見られ、当事者もそういう認識を心の隅にでも抱えていると考えているので)、はそれだけで不平等を強いられている。

マジョリティの側の人が「気にしすぎだよ」と言っても、

マイノリティの側の人が「気にならないよ」と口にしないのであれば、おそらく未だ世の中には不平等がはびこっている。


いいことを一つ。

恋愛感情があると、痴情によるいざこざに巻き込まれやすい。
三角関係的なもつれや殺人にさえあいかねない。

恋愛感情がなければ、そこに巻き込まれる可能性が薄くなる。

 

一つ心配事が減る。あーよかった。

 

恋愛映画とかドラマ、ラブソング特集なんかははじめからスルーしてしまう。
なにゆえ、それほど会いたいと思えるのかが不思議。
相手を巡って喧嘩する必要もない。

わたしには他に読みたい本があるし、見たい社会派ドラマがある。
生きる希望をもらえる歌の方が好き。

誰かに会いたくて泣いたり、眠れないほど胸が苦しくなったり、道端で倒れ込んで泣き叫んだりしない。頬を叩かれたり、さよならが前提にある出会いなんてしたくない。
あまりそういう歌を聴いてもピンとこないし、ドキドキできない。
どこか、自立できていない人たちにすら見えてしまうのだから、始末におえない。


嫉妬でいらぬ興奮をしたり、痴情の果てに道を踏み外すこともない。

 

あれ?
あんがい、いいこと多くないか?

アセクシュアルで困ることなんて、さほど多くない。

 

友情結婚に特化した結婚相談所カラーズ

どうして結婚したいのだろう②

『どうして結婚したいのだろう①』より続く

 

こういうブログを書いているからといって、わたしは特に誰に対しても結婚を勧めているわけではありません。

 

「結婚がゴール」とかいう昔みたいなことを言うつもりはないし、

「結婚して幸せになる」などと言っている人には、一人でも幸せを感じられない人は結婚しても幸せになんかなれっこないとツッコミも入れます。

 

Aセクながら結婚してみて、いいこともあれば、おいおい!ということもある。

ま、当然ですね。ひとつ屋根の下で他人同士が一緒に暮らすんだから。

すっごく広い家ならいざ知らず、自分だけの部屋なんてめったに持てるものではなく、プライバシーなんてあってないようなものという場合も多々ある。家のほとんどが共有スペース。

 

トイレまだ? わたしも入りたいんだけど。 

なぜそのタオルでスマホを拭く? 子供の口拭き用なんだけど。

それと同じのわたしも持ってる! ってどこから持ってきた? そこ、わたしの小物入れです!

ボタン取れたから付けておいてってワイシャツを差し出すけれど、妻の仕事となぜ決める?

育児も家事も手伝いではなく、当事者として積極的になすべきことです!



結婚すると、いやが上にも男女の役割みたいなものの疑問が当然のように湧いてきます。

付き合っているだけでは分からなかった、細々とした夫から見れば妻がするのが当たり前の、もしかしたら妻の側からしても夫がするのが当然のことなんかが嫌でも目に付くし、思い至ります。

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子供がいたりすると完全に主導権は子供に握られます。

特に子供がまだ小さい頃には有無を言わせず彼ら彼女らの世界に引きずり込まれる。

大人の論理なんて通用しないので、泣けば行かなければらないし、来てと言われれば行かなければならないし、ジュースをこぼせば自分の食事を投げ出して拭きに行かなかればならないし、お腹が痛いと言われればトイレで付きっきり。

とにかく体が一つでは足りません。

精神の一つや二つ、分裂するのが当たり前です(T_T)



結婚って、なんて嫌なものなんだろう。

面倒なことばかり。

 

子供は仕事をしている人には結構足かせになることもあるのです。

配偶者だけで、子供がいなければもっと好きな仕事ができたのにという人もたくさんいます。

この国では女性の社会進出を阻むものなんて未だにいっぱいあります。もう2022年なのにね。先進国とは名ばかりで。



それなのに、したいですか? 結婚!(^_^;)



面倒ですよ。

 

自分のことを考えるので精一杯の人の周囲に、他人が1人、2人、3人……と増えていくんです。。。

キャー、あたしにはムリだわ〜_| ̄|○



と心配する人多いともいます。

わたしもそうでした。



でもね。意外とそうなりませんでした。

 

自分の居場所づくりみたいな感じで、中に入ってしまってから考えるしかないのだと思います。

新しい環境を先に頭で考えていても、実際に生活している中でどんどん変わっていきます。

一人暮らしで新生活をスタートさせるのならば想像もできそうなものだけれど、

親しくなった人とはいえこれまで別の環境で暮らしていた他人と生活を共にするんです。

見えない部分が多くて当たり前です。

 

やってみると、あんがい適応していけるものです。
なにごとにも、完璧を求めすぎないこと。
数カ月後には適応してしまっている自分にびっくりするかもしれません。



どうしても誰かと一緒に暮らすことを、
あるいは結婚を躊躇してしまう理由がそんなところになるのなら、
取越苦労になる可能性が大きいので考えるのをやめましょう。

 

必ず結婚がいいものだとか、誰にとっても一度はしてみた方がいいなんてことは少しも思わないけれど、
マイナスのことだけを想像で膨らませて前に踏み出せないのならば、それはちょっと無駄足かも。

 

特にAセクとかノンセクの人は相手探しがまず一大事なので、
もし目の前に受け入れてくれる人がいるならその縁を大切にしてもらいたいです。

 

わたし自身も当時すでにいい歳だったので、今のパートナーを逃していたら結婚していなかったかもしれません。
もちろん可能性の話だからなんとも言えませんが。

でもそのくらいタイミング、行動、思い切り、みたいなものがうまく合って、「ま、やってみるか!」というノリで結婚生活に突入しました。

 

面倒なことは、日々ありますよ。

だけどそれは、1人でも結局あることだと思うんです。

 

家族ができてみて初めて分かる相手を思う気持ちもあるし、
「いってらっしゃい」「いってきます」「あ、買ってきててくれたんだ。ありがとう」「先に寝るよ」「ここ置きますよ」「はいはい、サンキュー」

こんな、どうということもない会話が自然と空気みたいに言える相手がいることって、わたしの生活には幸福の一滴のエキスなわけです。

歳を重ねただけかもしれない。
だけど、やっぱり独身の頃にはこういう当たり前の生活のありがたさに気づけなかったな。

 

 

 

どうして結婚したいのだろう?①

こんにちは。

 

昨今の感染症対策で部活動もままならなかった子どもたちが、
今年は元気に声を響かせています。
放課後にはたくさんの子供たちが姿を見せ、それぞれの部活で準備体操だったりランニングだったり、活動をスタートさせています。

 

活力があっていいなあ。

わたしは健全な子供たちの声が嫌いな方ではありません。

むしろ明るい気持ちになれます。子供の頃からわりあい近くに学校があってそういう声に慣れ親しんでいるからか、安心感さえあります。

 

昨年、40を過ぎてから結婚した人が周りに数名いて、これはとても嬉しいニュースでした。

学生時代の友人や仲良くしている知人なので、よかった! と心から思いました。

結婚出来てよかったねという変な上から目線じゃなくて、彼女たちの顔がみな明るかったのが、見ていてすごく気持ちよかった。

で、改めて結婚ってなんだろうと考えました。

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結婚に憧れるという人がいるけれど、わたしには憧れとか幸せになりたい(というか、してもらいたい)という気持ちがほぼなかったので、イマイチそういう人たちの気持ちが分かりません。

好きな人と一緒になって家庭を持ちたい。

とか、

経済的に安定したい、ということかな?

親を安心させたいとか、世間の目を気にしてという理由もあるでしょうね。



以前にも書いているけれど自分のことを引き合いに出せば、

わたしは

✕「(恋愛的に)好きな人と」⇒◯「人間的に信用できる人と」、

パートナーとしてではなく結婚して、子供を持ち、家庭を築くことで生活の基盤を得たかったということになると思います。



自分一人の時間や空間を持つことが限りなく好きだけれども、

子供がいる、一家族としての集合体を経験してみたかったということでもあります。

 

一人の時間が長かったので、そろそろ違う環境に身をおいてみたい!

要は「何でもやりたがり精神」で結婚してみた、とも言えます。

 

だから特に結婚というものに対し憧れとかはないし、

ラブラブな人と一緒になりたいとかいう乙女チックな想像は皆無でした。

結婚してからもすぐに安定した生活の構築を模索していましたね。

 

結婚はスタートでもゴールでもなく、単に人生の一部

さあ、この環境でわたしはどう動いたらいいだろう?

この家族という2人体制の中でどんな人生を作っていこう。



そんな感じで不安より楽しみのほうが大きかったです。

 

わりあい人生は「実験」とか「ゲーム」という捉え方をする性格でもあるので、
基本的にストレスはたまらない方ではありますが(^_^)

 

ただ、わたしには最初から、結婚した先の生活は二人で作っていくものであって、

どちらか一方が幸せを与え続けてくれるものではないという思いがありました。

 

 

当たり前に思われるかもしれないけれど、結構わたしが独身時代を過ごした頃にはありましたからね。

女性は男性に幸せにしてもらうものだ、みたいなのが。

男性は女性を幸せにしてやらなければならない、みたいなのが。

 

「お前を幸せにする!」(男)

 

「あたしを幸せにして!」(女)

 

とか平気で口にする人たちが。

 

夫婦間、どちらが上でどちらが下ということは基本的にないので、お互いがお互いのことをいたわりあって2人で相手を幸せにすることを考えて、自分も幸せでいることを考えていればいいんじゃないのかな?

 

ちょっと毛色が違うけど、ついでに言わせてもらえば、

「家庭は妻が守ってくれているので、僕は安心して仕事に取り組めます」

という男性側からの言い方にも首をひねります。

 

家庭を守るのは夫婦2人でするものだし、安心して働きたい女性だってたくさんいるんですよ。

根本から勘違いが発生していて、おそらく男性側はおかしいことに気づいてさえいないのだろうけど。

 

 

『どうして結婚したいのだろう?②』に続く

 

 

 

 

子供が好きなアセクシュアルもいる

こんにちは。

2020年に始まったコロナ騒動も早いもので3年目ですね。

手洗い・マスク生活にも慣れ親しみ(?)、一部ではもはやマスクで口元を隠していないと相手が誰か分からないなんて状況にもなっているみたいです。

 

小学生のわが子の学校での生活も、以前のわたしたちの頃とはだいぶ違って。
たとえば給食中は一人ひとり、前を向いて自分の机で黙食。

給食の時間には友達と机をくっつけて向き合い、ペチャクチャおしゃべりしながら食べるのが一番の楽しみだった頃のことを思い出すと、あの楽しみをこの子たちは経験しないのかー、なんて思ったりもします。

しかし、今考えるとおそろしく唾とか飛んでいたんだろうな……(;^ω^)

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偏愛


子供を見ていると過去のいろんなことを自分と比べて思い出したりもしますが、

Aセクのわたしが子供を持つことには何の抵抗もなくて、むしろ子供をもってよかったなと思っています。

毎日、忙しいけど(+_+)  記憶、ぶっ飛んでいるけど。

 

恋愛に対して淡白なのはある意味当たり前だけど、その反動ではないにしろ一個人の人間に対しては猛烈にベクトルが向く傾向があって、
好きなものや気に入った人に好意を抱く? 
興味関心を抱く? 

言い方はどうでもいいのですが、そういう感情が、恋愛がらみの「好き」というのとはまったく別にわき上がるわけです。

注意:偏愛は、あくまでわたし一個人の傾向です。




独身の頃から結婚して子供がほしいな、と漠然と思っていました。

 

だけどうまく人のことを好きになれないのに結婚なんて出来るかな……

子供を持つのって、結婚のさらに先にあるよなぁ……

 

現実問題、どうなの? 難しいよな、って。

「恋愛的に好きでなくても、相手のことを人間的に好きでいられれば演技くらいはできるかも」

というのが当時の考え方でした。

 

恋愛感情を含んだ「好き」 ⇒ 交際 ⇒ 結婚 ⇒ 出産

 

の図式がわたしには強かったのです。

 

LGBTQIAなど、性的少数者に特徴を表す名称がつけられて、大ぴっらに世間の人たちの口にのぼるようになったのはごく最近のことだと思います。

2015年のパートナーシップ制度が、わたしにとってはセクシュアルマイノリティと言われる人たちの存在を強く意識した最初です。

 

こんな書き方をするのも、その頃まだわたしは自分もそちら側に属していることに気づいていなかったからです。

 

わたしはアセクシュアルノンセクシャルといった言葉の世間的認知度が低かった頃から、あるいは名付けられてもいない頃から、

「どうやら自分は周囲の友人たちとどこかが違う」「みんなが騒ぎ楽しんでいる恋愛の感情がいつまでも持てない」ということを感じざるを得なくてずいぶん気持ちが不安定な時代がありました。

 

なにしろ恋愛から結婚に至る道は、ほぼ一つのコースに限られているような考えが世間一般的で。

そんな世界で「恋愛ができない」、そもそも「恋愛的な気持ちってなんだ?」などとやっているわたしには、その先の家庭を持つという未来はずいぶん遠かったのです。

 

だけどパートナーシップ制度とかLGBTQIAという言葉を知るようになり、初めて未知の、しかも明るい光の射す世界で生きている人たちの存在を知りました。

 

そしてわたしのような性的な特性を持つ人間にも、きちんとした名前が付与されていることも知りました。

 

自分が何者であるか。

そんなこと、他人に決めてもらうのではなく、自分自身で決めることだよ。

 

そういった、意思決定を他人任せにしてはいけないという教育的なこととは別に、

自分が社会の一員として、一個の名付けられた者であると認められていることの精神的安定感

これはわたしにとって非常に大きいことでした。

 

アセクシュアルっていうんだ!」

「なんだ、わたしはAセクシャルだったのか!」

 

性的少数者の特異性に喜んだわけではもちろんありません。

 

自分の居場所をみつけたというか、
「全然おかしくないよ。そのまま何かを直そうとしたりしなくてもいてもいいんだよ」
と受け入れてもらえたような気がしたのです。

 

見知らぬ人だったとしても、誰かが自分のことを分かってくれている。

同じ境遇の人がいる。

よく言われる「あるがままの自分」を受け止めてくれる人や場所。

 

そういう安心できる居場所に、わたし自身が子供にもなってやらなければな、と思います。

 

わたしは自分自身の性的傾向がこんなだからか、

子供が性別を超えてどんな人を大切に想うようになっても応援すると思います。

もちろん誰かを恋愛的に好きにならなくてもちっともかまいません。

別に驚きもしないと思います。


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たまに、子供が好きすぎて、

もしもこれと同じくらいの熱量で他の誰かに恋心を抱く傾向が自分にあったとしたら、

絶対に「あいつおかしい」とか「ヤバいからあいつだけには近づくな」とか言われていたと思って苦笑してしまいます。

 

アセクシュアルだからといって、誰かを好きにならないとか愛せないというのは全く間違った受け止められ方です。

結婚したいアセクシュアルもいるし、子供を持ちたいアセクシュアルノンセクシャルもいます。

 

一人ひとりの性格が違うように、性的傾向だって違って当然なんですよね。