恋愛感情は、感情のいちパートに過ぎない
こんにちは。
わたしは自分がAセクという部類に属しているらしいと意識してから、はじめてLGBTとかセクシュアルマイノリティとかの言葉を知り、理解を深めた口です。
なにしろそれまではそもそも自分が何かの少数派に入っているなどとは夢にも思っていませんでした。
どんな分野においても、わりあい少数の方とか弱いチームなんかを応援してしまう傾向はあります。
「人数少ないのによくやっているな。頑張れ!」「一点でもいいから返せるようにがんばれー」とか。
だいたいにおいて、人って自分はマジョリティの側に属していると考えがちではないだろうか。
たぶん、わたしはそうだったと思います。
だから、自分自身が少数の側にいるなんて衝撃でした。
それも、セクシュアリティの部分で少数派に属しているとは本当に驚きでした。
それまでも、性的なことに対して、
なぜ? なんでそうなる?
ということは、友人とや付き合った人との間で思ったことはありましたが、
実際に自分の性的指向に、どうもいわゆるマイノリティ側の一名称「アセクシュアル」がぴったり合うみたい! と知った時は衝撃で、ちょっと時間が止まった感がありました。
恋愛ありきの世の中に思うこと
どうして恋愛感情が愛情より勝るのか、まったくもって意味不明です。
たくさんのことに興味があり、その物が好きになったり、愛おしく思ったり、大切にしたいと思ったり、かわいくて仕方がないと思ったり、大事な存在がいたりあったりしても、
それが「恋愛」と結びつかないというだけで、「冷たい」とか「人生おもしろい?」などという発想になってしまうのは、図る物差しがその人たちにはその部分しかないから、あるいは「恋愛感情」をもっとも重要視しているからということになるのでしょう。
わたしにしてみれば、そこに大きな違和感を覚えてしまうのだけれど。
恋愛感情って、人間の感情の中の一パートを担っているにすぎない。
それを感じられないのはかわいそうと言われても、そういう方面からしか考えられない人の方がわたしにはかわいそうに思えるのだけれども。
ちょっと、思考が偏りすぎているんじゃないのかな、と。
人の感情の種類ってたくさんあるわけです。
人が生きていく中で「恋愛感情」の占めるウェイトって、そこまで高い必要なんてないんだけどな。
多様性とか叫ぶ前に、自分自身の中に多様性を植えつけようよ、と思う。
そんなたかが一部分の感情を、人間のすべてかのように捉えることに疑問をもった方がいいのではないか?
恋愛至上主義者に対してそう思う。
感情の種類のどの部分を一番大切にして、どんな感覚が鋭いのかなんて、完全にその人の自由です。
みんなそれぞれ、いちいち違う。
嗅覚に優れた人もいれば、視覚に優れた人、平衡感覚に特別に優れた人とか様々いるわけです。
感情も同じで、喜怒哀楽、好き嫌い、広く親和力とか親切心とか種々ある。その中でどこが強くて、どれが弱いかは人によって比重があって当たり前です。
人間って、もっと大きいですよ。
様々角度から物事を見られるはずだし、いろんな感じ方捉え方ができるはずだし、好きの嫌いのやって時間を取られ、集中力を奪われているのはある意味時間の浪費です。
ヒマというか、もったいない。
もちろん恋愛感情のもつれを楽しんでいる人もいるから、そこに喜びを見出している人もいるから、全否定なんかはもちろんしないけれど。
ただ、ちょっと偏りすぎだよ。
自分の興味だけで他人を図らないでほしいな。
裏を返せば、自分の個性の押し付け、多様性に目を向けていないことの証明をしているということにもっと気づいてくれればいいんだけれど。