信頼できる人と結婚したい。Aセクでも結婚できるよという話
こんにちは。
この記事を読まれる方の中には結婚を考えている方も多いと思います。
そこでですが、結婚には愛が必要といわれますよね。
だけどこの「愛」というもの、けっこう抽象的すぎやしませんか?
人によってとらえ方もずいぶん違うでしょう。
「愛」よりももしかすると大事な言葉。それがわたしにとっては「信頼」でした。
大事というよりも、自分にとって誰かを想う時に最も比重をおいている言葉。
それがわたしにとっては「信頼」ということになります。
目次
1 愛?
長い間、正直言って「愛」という概念がよく理解できませんでした。
特に結婚して子供を持つまで、「愛」というこの聞きなれた言葉が、
周りのみんなが当たり前のように使うこの「愛」という言葉の意味が、
その実態を持って自分の身に入ってこなかったのです。
誰かを想うとか、何かに対して思いやるとか、いとおしむ、慈しむとか。
うん。まあ、分かるけどさ……
といった感じで、
全然心に響かないし、誰にでも多少は備わっているんじゃないかな、くらいな認識でした。
でもそれが、だれか特定の人を愛おしく思うことにつながるのかな……
ちょっと宗教の匂いさえ感じてしまうんだけど……
そんなふうに、頭で考えて理解しなければならない言葉、それが「愛」でした。
2 恋愛?
もっと分からなかったのが「恋愛」というものです。
そもそも自分には「恋愛感情」が欠如していると気づいたのは、ずいぶん後になってからでした。
だから自分に与えられる名称の存在を知るまでは、闇の中で手を伸ばしている状態でした。
周囲からはいたって普通に生活しているように見られていただろうに、
水面下では自己のアイデンティティの不在に長い間苦しんでいました。
性的志向を明確にする必要などないとは思います。
人の気持ちって実は流動的で、時によって男性の気持ちになったり女性の気持ちになったり、必ずしも異性が好きだった人がいつも異性に気が向くとは限らないのだそうです。
自由に性を行き来すればいい。
そう思っています。
今ではそう思えます。
なぜなら、自分自身に名称を与えることで満足しているという基盤があるからです。
根本が揺らいでいるのに、心からの安心とか自信のようなものは生まれませんから。
3 アセクシュアル
Aセクなんて呼ばれたりもします。
それがもっとも腑に落ちる自分の性的志向を表す言葉でした。
この言葉を知った時、心底安心したことを覚えています。
極端な話、生きていてもいいんだ、このままでいいんだ、無理に合わせたり矯正しなければならないわけではないんだ、と思いました。
ありのままの自分でいい。
この言葉もあまりによく聞くので、今さら書くのも恥ずかしいのですが、
本当に「あ、自分のままでいいのか」「このままで何もおかしくないんだ」
と思えました。
ただただ、安心感しかなかった。
恋愛感情や性的欲求に欠ける特徴を持つアセクシュアルにとって、
恋愛というものが理解できなくて当たり前なのです。
あの「恋バナ」と呼ばれるものや、ラブソング、恋愛映画等々、「???」のオンパレードなわけです。
ようやく納得し、それからなぜ自分が愛などよりも「信頼」の方に重きを置くのかも分かったのです。
4 信頼婚のすすめ
わたしは相手が男性であれ女性であれ、その人の人間的な部分にしか興味がわかないのです。そこにセクシュアリティ的なものを感じないので当然そうなるのでしょう。
相手が男だからとか女だからというセクシュアルな目で見ることがありません。
その人が人としてどんな相手なのか、人間的魅力があれば単純な意味で「好き」になります。
人として好きな人はたくさんいます。
素敵だなと思う男女、たくさんいます。
人間的な部分に惹かれることは多々あります。
そしてその相手に信頼感を覚えれば恋心は生まれないけれど、もっと一緒に仕事をしたり、遊びに行ったりしたいと思います。
だって、その人のことが「好き」だから。
人間として、その人の魂の部分がおそらく「好き」だから。
そういう人となら、将来をともにできるとわたしは思います。
友情よりもっと強い親友同士のような結婚。
信頼関係で結ばれた、相手を尊重しあえる家族の形。
世間で一般的といわれている異性婚とは違うから、という理由で結婚をあきらめるのはもったいないです。
信頼できるパートナーと、日々のこまごまとした喜怒哀楽を共有しあうのは結構楽しいものです。
子供を持ち、あれこれ振り回されたりしてパンクしそうになりながらも「愛してるよ」なんて、これまでの人生で信じていなかった「愛」という言葉が口から飛び出すのに自分でも驚く、そんな福感を味わう生活は決して悪くありません。
誰でもなりたい自分になれるし、描ける未来を手にできる。
そう、わたしは思います。